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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.5 『藤井堰と水争いの歴史 ~用水の一滴が血の一滴~』
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農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.5 『藤井堰と水争いの歴史 ~用水の一滴が血の一滴~』

2016年04月01日

施設概要 【にいがた農業水利施設百選(整理番号19)】 

 藤井堰(藤井頭首工)は、柏崎市を流れる鯖石川の下流部に位置し、北鯖石地区や田尻地区等の約800haの農地を潤す取水施設で、約400年前、与板城主であった直江兼続が新田開発のために当時の藤井村に造った堰が起源と言われています。
 現在の藤井堰は、昭和52年に完成し、農業用水の安定的な確保・供給のために重要な施設となっています。藤井堰の隣には記念碑が建立されており、「用水の一滴が血の一滴」と刻まれているように、多くの水争いを繰り返しながら、刈羽平野の農業を支えた歴史ある施設の一つです。
現在の藤井堰(S52築)

インタビュー協力

與口勝郎さん(柏崎土地改良区前理事長)
武田勤さん(柏崎土地改良区事務局長)

インタビューの様子

施設の歴史

藤井堰の創設

(草堰)
 藤井堰の創設について明確な記録は残されていませんが、文禄4(1595)年、上杉景勝の重臣であった直江兼続が、『藤井堰掟書』を下し、新田開発が進められた記録が残されており、この頃に藤井堰が造られたと言われています。この当時の堰は、川底に打った杭にそだ木の束を組み、土俵を積んで造られた「草堰(くさぜき)」と呼ばれる簡易なものでした。簡易なつくりであったため、洪水などにより度々壊れ、改修のたびに位置が変わっていたようです。その後、鯖石川の河川改修工事が行われ、「草堰」があった当時とは鯖石川の位置そのものが変わっていますが、「関(堰)野」という地名は当時の名残と言われています。

◇◇◇藤井堰の位置図◇◇◇(PDF形式  396 キロバイト)

(鎧堰)
 藤井堰が造られた以降も新田開発が進められましたが、当初の藤井堰の位置では十分な用水が確保できませんでした。そこで、正保元(1644)年、刈羽郡奉行の青山瀬兵衛(あおやませべい)により藤井堰の改修が行われました。
 元々、堰があった藤井村から1㎞上流の平井村に新しい堰と東江・西江用水路の整備を計画しました。当時の平井村は天領であったため、建設の許可がなかなか降りず苦労をしましたが、瀬兵衛の熱意により、平井村での藤井堰建設の許しがおりました。瀬兵衛は早速堰の造成に取りかかりましたが、鯖石川は度々洪水が起き、その度に造成中の堰が流されてしまい、10年もの年月をかけてようやく完成したといわれています。
 新たな藤井堰は、川底に打った杭にそだ木の束と土俵を積み、同じものを少しずつずらしながら積み重ねていく工法で造られ、草堰よりも丈夫な堰が造られました。その姿形から『鎧堰(よろいぜき)』と言われました。

明治期の藤井堰(鎧堰)

 江戸時代の刈羽平野は、多くの大名領・天領が入り乱れており、それぞれが石高確保のために無秩序に開田が進められました。しかも本地域は流域が小さく、利用可能な用水量が限られるため、水争いが頻発するようになってしまいました。

(主な水争い)
  元文5(1740)年 藤井堰西江上下流の訴訟
  明和3(1766)年 藤井堰西江の3ヶ村の新規加入訴訟
  明和8(1771)年 藤井堰と上流の善根堰の訴訟
  安永2(1773)年 藤井堰と上流の安田堰の訴訟
  天明3(1783)年 藤井堰東江・西江の訴訟
  天明5(1785)年 藤井堰西江の3ヶ村の新規加入訴訟
  明治2(1869)年 藤井堰と上流の安田堰の訴訟

水争いの歴史

(大正7(1918)年、新潟県による大規模河川改修)
 大正7(1918)年、県によって大規模な鯖石川改修計画が立てられました。その内容は、藤井堰上流の山室橋から南条の信越線鉄橋までの約9㎞の蛇行した鯖石川を改修するとともに、それまで草堰であった安田堰に南条堰を統合したうえ、コンクリートの堰に改良するものでした。
 これに対し藤井堰組は、「上流の堰が改良されると、全量が取水されてしまい、下流が多大な干害を被る」と訴え、河川改修を藤井堰まで延長し、藤井堰の改築も行うよう請願しました。この結果、河川改修は藤井堰まで範囲を広げ、大正10年に上流の安田堰(現在の善根堰(ぜごんぜき))が、翌年の大正11(1922)年に藤井堰がコンクリート造に改修されました。

大正11年に造成された藤井堰

(昭和51(1976)年、藤井堰・善根堰改修と用水配分の合意)
 昭和34(1959)年の豪雨により善根堰が決壊し、災害復旧工事が行われることになりました。藤井堰組との協議なしに全量取水方式へ改築されたため、積年の水争いが激化しました。藤井堰組は、柏崎土木事務所へ安永2(1773)年の用水の配分比率を遵守するよう申し入れ、同時に県知事にも水利権の確認を申し入れました。
 昭和48(1973)年、県知事が善根堰改修に際し、上下流の分水に公平を期す旨回答し、昭和51(1976)年、鯖石川土地改良区と刈羽平野土地改良区との間で、用水配分を射流分水方式により、当時の受益面積から、善根堰1.0に対し、藤井堰2.8とすることで協議が成立しました。この協議に基づく設計により善根堰の射流分水工と藤井堰が完成しました。

善根堰の射流分水工

(土地改良区の合併)
 施設が整備され、用水配分が決定しても、鯖石川上下流の対立関係は残りました。用水不足のときには、射流分水工の一部をせき止め、用水量を変えることもあったそうです。
 平成6(1994)年に、鯖石川土地改良区と刈羽平野土地改良区は、柏崎市内の他の土地改良区と合併し、柏崎土地改良区となりました。上下流の受益者が同じ土地改良区の組合員となったことにより、組合員同士で用水の調整が行われ、融通し合うことができるようになりました。
 昭和51年の用水配分の決定も水争いの解決に向けた大きな出来事でしたが、土地改良区の合併により同じ組織の組合員として水を融通できるようになったことが本当の意味での水争いの解決になったとのことです。

国営事業による水源確保

 刈羽平野の農業用水は、鯖石川・別山川・鵜川の3河川によりかんがいが行われていますが、鯖石川以外の河川も自流が乏しく、恒常的に水が不足していました。
 このため、国営柏崎周辺農業水利事業により3つのダム建設と既設の藤井堰、善根堰の改修が計画され、平成9年度より工事を開始しました。既に鯖石川上流に栃ヶ原ダム、別山川の上流に後谷ダムが建設され、供用を開始しています。
 現在は、鵜川上流に市野新田ダムを建設中、平成31年の完了を目指しています。

おわりに


 ダムが完成したことにより、以前に比べ用水確保が容易になりました。しかしながら、用水には限りがあり、その大切さは現在も変わりません。お話を伺った柏崎土地改良区の前理事長である與口さんは、担い手への集積や世代交代により、蛇口をひねれば出てくる水道のように、用水のありがたさが薄れていくことを憂慮され、そうならないように水争いの歴史を後生に語り継ぎ、水の大切さを伝えていくことも土地改良区の役割であるとおっしゃっていました。
 本記事が、「用水の一滴が血の一滴」と語り継がれる貴重な用水の歴史を、後生に伝えていく一助となればと思います。

藤井頭首工の隣に建立されている石碑

関連リンク

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